愛ダケじゃ、育たない。

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親である事、療育者である事の境界線

日常を一番理解しているのは、毎日一緒に過ごしておられる方です、と。
専門の療育センターの方に、はっきりと言われてから。
   
どちらを優先させたいのか、また。
どちらを優先、させるべきなのかを自身に問う。

 
息子と過ごす時間が長ければ長いほど、私は。
そのどちらなのだろうと、自身が我を失っている時間を振り返る。
 
「私共は一番に親御さんの意向と、自宅でなさっている方法を重視しています」
 
それらは、今より有効的な方法を探り出す手段の一つ、でもあろう。
勿論、必要性のない手法の淘汰の意味も含めて・・・、けれど、私は。
 
その言葉を聞いてから、指示を息子に入れるとき、泣いてる息子を抱き締める時。
その場面、その表情、仕草、眉ヒトツの動きも見逃さぬよう全身全霊で、息子に対峙した時。
全ての思いが「母親」であるから~、といった、根拠なき母性が崩れた気がした。
そして私は、「母親」と「療育者」そのどちらの時間が長いのだろう、と・・・。
 
母親である盾を持つ者の指示だからこそ、入り易い。
日常を一番理解している療育者だからこそ、指示が的確であるのは、事実。 
親が療育を家庭において行う場合。
子供にとっては、その幼い24時間全てが、療育される場である。
 
それら全般の24時間のウチ、療育って、「個々に応じた躾」の範疇を出ない時もある。
何回言っても分からない場合、「絵」で示す。
エスカレーターに乗る時、歩く時・・・手を繋ぐ。
それすら、やっと・・・、3歳になってやっと可能になったのに。 
何度も、絵本や図で示し、息子と私が手を繋いだ影を見せ、
シール、マーク、視覚聴覚、触覚、全てに訴え、やっと可能になったのに。
 
子供は必ず発達する、障害があっても発達する、と。
どの本にも書いてある。
息子は親の目から見ても、幼い
それが障害の特性なのか、個性の範疇なのか、今は判断が付きにくい。
  
息子が、私に手を伸ばす。
その手は母親として、息子と手を繋いで歩きたい、その一念で叶った形だ。
が、その思いを叶える手段として、療育者にならざるを得なかった。
何度言っても、広い場所だと振り向きもせず、駆け出す息子に、
「絵」を用いて、最終的には視覚支援に頼った。
そして、療育者である事を優先した結果、母親としての願いは叶った。 
  
LDの中でも息子は多分、「聞き取りが苦手」なタイプ。
そして、字も・・・、(これはまだ、本当に分かりませんけども
 
検査テストで出る指数は、本人の得意分野である程度、平均以上を出せる。
が、現実には運動は出来ても、聞き取りの発達指数が40程度だと、どうする?
運動面で才能を発揮して・・・なんて、ストーリーは、現実的に考えれば、
その才能を活かせる集中力と継続力があって、こそ、だ。
 
これから息子と向き合うべき場面は、息子の世界が広がるにつれて多くなる。
そして、母親として世間様と向き合うべき機会も、増えはしても減る事はないやろ。
息子に「アンタは、そのまんまでいいねん」と言い続け、息子の長所を認め、
伸ばし、「そのままの息子丸ごと」を支援する母親で居続けたい、そう願いながら。
果たして世間様にも、息子の周囲そのものへも、その強硬さを貫けるのだろうか。
 
他人様に叱られなければ、子供は真っ当に育ちにくい、と思っている私は。
ご近所にも叱ってもらって、勿論、先生、友人に、果ては友人の親御さんにも、
叱ると言う「愛のムチ」をもらいたい、褒めるという「自己肯定」を、と願っている。
それをしてもらうには、当然、親である私の日頃の行いにも関わってくるだろう。
 
聞き取りの難しい息子が、誰かに叱られて、その意味を汲み取れない場合。
正面切って、
「そんな言い方じゃ、ウチの子には分かりません、絵で書いて叱って下さい」 と。
正々堂々、威風堂々と言い続けられる母親で居られるのだろうか、と思う。
 
療育センターの方は。
「お母さんが療育者になってしまっては、子も親も辛いですから」
「家では精一杯、甘えさせて、抱き締めてあげて下さいね」 と言われたが。
母である事も、療育者である事も、超えて育てなければ、育ちにくいのかもしれない。
 
未だに朝のお着替えが、一つ一つの声掛けがないと進められない息子に。
母親なら、特性の無い子なら
「アンタ~~!エエ加減にしぃや!ちゃっちゃと着替えや!」 の一発で終わるだろうに。
療育者で、特性を持つ子にだと
「今はお着替えやね、パンツとシャツの次は何やろね?そやね、次は上のシャツ、
 それ着たら、はい、ズボンやね、あ!足の指が寒いって言うてるで?」 と。
活字なら2行だが、現実の手間隙、精神労力は3~4倍やねん。
幼稚園へ通ってる間は「プールでのお着替え」が一人で可能だったから。
視覚支援を考えマグネットを貼り付ける方法も考えた、が。
朝は、私と一緒に着替えている息子。
当然、甘えが出て着替え、進まず、靴下も履けず・・・亭主の弁当作ってる暇もあらへん。
 
母であること、それ以上の療育者である事。
療育者である事、それ以上に、息子一番で大事に育てる母親である事。
手を繋ぐ前までは療育者として、手を繋げた後は、世界で一番息子を愛している母親として。
これからも息子と、手を繋いで行こう、心を紡いで歩こう。
 

         にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害・自閉症へ  なかなか訪問出来ず、コメントも書き込めず、ごめんなさい。
                     ですが、必ず覗いますから。
                     いつも応援ありがとうございます。
                      



 

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コメント


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こんにちは。

療育ってなんだろうって最近思います。
受けられなかったから、余計思う。

わたしはママだけど、もうずっと療育者。
こどもも、ママの説明が一番わかりやすい。って
言っている。嬉しいような、心細いような。

支援センターも診断がでた後は音沙汰なし。
ドクターもコンサータを処方するだけ。
<でも効果が現れないのでやめる予定>
これで事実上通うことがなくなると思う。

担任も楽しくやってますの一点張り。
休み時間にドリルすすめているのは
喋るひとがいなくて暇だからだと
思うと悲しくなるけど。

療育を受けられなかったことで
見捨てられた気分が少しあります。
ポジティブに軽度だからだと思うように
していますが、診断がでたことは事実だから、
そのあとのフォローが欲しかったです。

ちょっと話がそれてすみません。

わたしはもう気楽なママにはなれないです。
フリを演じてはいるけれど。
永遠に伴奏者の席にいると思います。







青い猫 | URL | 2009年01月15日(Thu)09:59 [EDIT]


そうか・・・そういうことだったのか・・・。
ママさんの想いを何度も読みながら、
自分の想いを確かめました。

視覚支援の方法がさんぽに効果的なのはわかっている。
でも、私の中で、そこにすぐに踏み込めなかったその理由に
自分が「療育者」になるということへの抵抗があったのだということ。
そうだったのかもしれない・・・。

母親でいたい、でもそれだけでは支援できない。
母親から療育者に変わるスイッチを常に携帯しながら
でも、スイッチを入れる手に戸惑う。
「今は、待つ時期じゃないのか?」
母としてありのままを受け入れ、母として待つ
母としての時間を失いたくない
自分はそう思っていたんだなあ・・・と改めて気づきました。

一方で、母は、わが子の専門家であればいいと思う。
大学で学び、通信の友達にすすめられ、行動分析学やポーテージの資料を前に、
私は・・・さんぽの母としてどうありたいのかな・・・ともう一度考えてしまいます。

境界線
どちらか一方に居住を決めることができたら楽だけれど
私には、まだそれもできないまま、です。


skymama | URL | 2009年01月16日(Fri)01:12 [EDIT]


青い猫さん

療育、そうですね。
近い内、その療育について、私が思っている事を記事にしようと思っています。
 
受けられなかったから、受けたから、の違いは、どこにあるんでしょうね?確かに身辺自立は「早い段階」で可能になりますし、コミュニケーションも言葉以外での成立が可能なら、早くに自分を取り巻く環境に目覚め易いかも、しれません。
 
が。
それを「どう活かすか」までを想像しつつ成立がなされているか、と言うと、息子を見ていて、正直「?」と思うときもあって。
 
永遠の伴奏者・・・。
私は音を奏でる余裕はなく「伴走者」の方かも(笑
息子の目指すものを捉えて息子と共に走るのではなく、
息子の背中を追いかける伴走ですが。
ですが、それでは息子は先の予測が付かないので、
結局「やってみなきゃ分からない」のまま。
社会って「やってみて、ごめん」の許容幅は少ないですよね、だから。
 
人様からはレールを敷く親に見れるかもしれませんが、息子を正面に据えて、そう、後ろ向きに息子の前を、
ダッシュで伴走していかなきゃ、と思ってます。
 
毎日、後ろにも目が欲しいなあ、横にもあったらなあ、なんて、苦笑いしながら思案してます、はい。

ママ | URL | 2009年01月19日(Mon)14:08 [EDIT]


sky_mamaさん

そう、指示を入れるときにね、迷う時あるんですよね。
・・・なんというか、これって躾?みたいな(笑
けど、やってる事は「真っ直ぐ歩かせる」って領域だから、躾じゃねえなあ、って苦笑い。
 
けれど、ソレら日常を息子に伝えようとするとき。
息子は「母として」の私を求めてる場面も多くあって。
大袈裟に褒める、ではないですが、「ママの笑った顔が好き」だと素直に言える感じる心を持っていて欲しいと願いつつも、「ママの伝え方(端的に、的確に が一番、分かるから安心」では、社会に出た時、本人、困るだろう、と。
 
私の息子に対する思いがブレる時、それはいつも、
「療育か、母性か」で自身が分別出来かねる時です。
息子は純粋に「指示が分かり易い=ママだから」と
思ってるワケですし。 
 
ですが、それでは就学した時に混乱を招くかな、とも。
私と同じやり方をってのは、ヒトツの手段でしかないワケだから、就学すれば先生のやり方、友達のやり方もあるワケで。
 
どちらか一方に決める必要性は無い、と私は思っていて。色んなママが居る、それが当たり前の日常で良い時期だ、とも思っています。
子供に安心を与えるのは、変化なき日常である場面もありますが、「母と一緒」の場面である事がまず前提です。それなら、療育者の枠も母親の枠も、私は突き抜けた存在で居たい、と願って息子の側にいます。
 
その存在って何でしょう?と聞かれると大変、訳しがたいですけれども、愛だけで育てられない子を、育てているウチに、答えが見つかるべ、と。
なんとも呑気に構えてたりしてます、はい。(笑

ママ | URL | 2009年01月19日(Mon)14:18 [EDIT]


ママさん、こんにちは!!
昼間コメントを入れたつもりでしたが、なぜか反映されてなかったので、気を取り直してもう一度・・・。

私にはまだ、療育者とはどういうものか、というのがいまいち分かっておりません。
そして、母親との境界線もぼんやりとしか分かっていない状態です。
ですが、後半部分のお着替えのくだり、もの凄くよく分かりすぎて涙が出そうでした。
私もね、ちょうどブログでそんな様子を書こうと思っていたところなのです。

私は色々ママさんのブログでは勉強させられることばかりです。
是非私のブログでもリンクをさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?

にゃりんた | URL | 2009年01月21日(Wed)16:19 [EDIT]


にゃりんたさん

こちらこそ!
ぜひぜひリンクさせて下さい!(めっちゃ嬉しい♥
 
どちらかに決める、のではなくて。
その決めかねてる狭間こそが「愛」やんけ、と。
療育者ならこうするやろな、けど、私、母親やねん、って気持ち、すごく大事やと思うねん。
 
んで、母親やねん、けど、コレをこうしたら分かるんやから、もっと学びたい、ってのも療育者の顔かもしれませんが、根っこはきっと「愛」を超えた何かがあるのかもしれませんし・・・。
 
「軽度なら言葉も出て、いいやん」
「高機能なら将来、まだ見通せるやん」ってね。
結構、言われましたけども、高機能だからこその壁もあって、言葉が出るから大変な時もあって(笑
だけど、そのどれもが「我が子のそのまんま」だと思うと、焦りもあったり愛おしさもあったり・・・。
 
リンクですが、早速させていただきます~~♪

ママ | URL | 2009年01月21日(Wed)22:37 [EDIT]


ずぅ~っと考えていましたが
答えはまだ出ません

私の求めている答えと
ママさんのそれとは違うのだと思うのですが・・・
表現するのが難しいです

まず
とは何ぞや
療育者とは何ぞや
ということの定義(あるいは思い)が違うような気がする

私の解釈では

親とはその子にとっての存在を身体的に生み出したもの
であり
多くは、引続きその子が自立するまでの支援を行うもの
だと思う

つまり親は子にとって唯一無二の存在で
どんなに嫌いになっても
その子の一生に
その人が身体的に生み出したという事実は消せないもの

ただし
その後の自立するまでの支援は
親でなくてもできるため
療育者とおきかえられる

という理解をしています


では
子にとっての支援とは何か

新生児・乳児期はおもに身体的支援が重要だが
(乳・食を食ませ、排泄の世話をし、環境を整える)
社会的支援ももちろん加わる

つまり
家族の一人として迎え
やがて自立していく社会の一人として迎える

そのために
家族や社会に応じた適応を促すことになる

個々の家族や社会形態は様々であり
親あるいは療育者をとりまく環境によって
適応するべき課題が異なる

子にとって支援とは
適応するべき課題を示し
子の能力に応じて説明し
子の適応を段階を経て促すこと

段階とは発達段階であるが
一般的には
年齢を目安にするのが通念となっている

人として
年齢を目安にするのは非常に理解し易い
なぜなら
身体的特徴によって
自他問わず共通理解できるからである

しかし
人は身体的にのみ存在するのではない

精神的な存在でもある
個別性が発揮されるのはこのためと考える

個別性とは
その人のみが持つ特徴であり
表象しているものもあれば
内在するものもある

そう考えると
様々な疾病なども個別性の範疇である

話を戻します

子の適応を段階を経て促す場合に
発達段階のみを目安にしては失敗する
なぜなら
個別性のある人だからである

もともと
人は身体的支援のみで生きられる
しかし
社会的な存在と考えるならば
何らかの支援が無いと適応することは難しい

何らかの支援

多くの人が
その支援方法について悩む
「これでよいのか」と

しかし
親として存在するだけでも
子にとっては
人を生み出すことのできるモデルになる
という支援方法である

親はそれ以上でもそれ以下でもない親なのだ

だから
私は「親であり療育」である

そして
私の子にとっての支援方法は
「私自身が考える(悩む)ことを示す」
私の子が私をモデルにするのではなく
私が考えたり悩んだりすることを共有することで
子なりの社会性を身につけるように

なぜか
私は
私の個別性は「考える」ということだから

絵本で「かみさまからのおくりもの」というのがあり
子に読み聞かせしていて気づいた
私へのかみさまからのおくりものは
「考えるだなぁ~」と
だったら
この個別性は大事にしないとと思い今日に至る

余談になりました

話を戻します

幸い私は「親であり療育者」であることに矛盾を感じない
それは
子のおかげと思っている

つらく苦しく哀しく情けない思いも
この子がいてこそ味わえる

そんなことが一杯あるが
その度に
「この子の親だからこう思うんだ」と納得できた

私はこの親の立場をこの子が存在する限り
味わい尽くしたいと思っている



支援者ではない
そんな気がしている

と今はここまでしか考えられていないです

これから先も考えていきたいテーマです
毎回ママさんの記事を読むと
とても良いヒントがもらえてありがたいです

これからもよろしくお願いします
ながながとお邪魔しました

PS:
今回考えるよすがに数冊の本を読みました
最悪と思ったのは
「自閉症児の親を療育者にする教育」で
良かったのは
「自閉症とコミュニケーション 心とことば」です
ご存知かもしれませんが…

なんだろう | URL | 2009年01月27日(Tue)09:24 [EDIT]


なんだろうさん

とても長いコメントをありがとう!
とても嬉しいです!
一生懸命伝わるように詳しく書いて頂いて、なんだか、恐縮しています。
 
そうですね、なかなか親って支援者になれません。
うーん、私は文章が苦手で正確に伝わるかどうか不安なのですが・・・(苦笑
 
私は、「親である、療育者である」といった事にはまず、感情論が先に出てしまって。
何々ゆえに何々だから~、といった理論的に形容出来ないタイプなんですよね~~(汗
 
親がする事って、まず「世話」ですやん?
うーん、言い方が荒っぽく聞こえてしまうかも、ですが、新生児のオムツを取り替えてミルクをやって・・・ってのは、「世話」ですやん?
勿論、オムツを替える時には、「さっぱりしたねぇ~♥」なんてね、やってましたけどもね、勿論。
でも、一方的な感情の噴出で補えた、というか。
 
けれど本質は相互的な関わりが始まってる時期なんですよね、この時期には。
んでも、ま、そこで、「なんでこの子は?」ってね、育ててく上で、なんか違うなあ、と。
それがいわゆる「育てにくさ」ってヤツで。
そこで、こっちは当然、世話以上の感情でもう育て始めてて、その相互性を求めつつやってるのに、その相互性を求めるってのが、親ならアタリマエやのに、そこが「療育」の力を借りないと難しい、ってトコロで。
 
そこで、療育者になったら、もっとこの子と意思疎通が簡単に出来るんやろか、もしくは。
もっとこの子の世界を知れるのか、と思うわけで。
 
個別性がある=親だから分かる事。
ってね、多いです、まだ家庭オンリーが生活の場なので。これが学校行って、ってなると、第三者の目も当然、必要になるワケで。
 
それは、療育者としてのプロの目ですよね、それは「私を含めた息子を客観的に見れる目」です。
 
ですが、療育者の方は「嫌いでも指示を入れられる」人であって欲しいんですよね。
社会ってのは矛盾と不条理で出来ています。
いや、政治をどうって話ではなく、その不条理の枠に自分の落としドコロを見つけられる人になって欲しいな、と思っているので。
 
例えば「諦め」「我慢」コレを教えるって、すごく難しいですよね~。「良い事をすればご褒美」って、そのご褒美って「良い事をした=自尊心」に繋げて行こうと思うと、はあ、もう、療育者の方に丸投げでお願いしていいのかどうか、なんてね(笑
 
親は確かに療育者ではないですね。
こんな事で、きっと悩んでいると療育者にはなれないと思います、社会に適応させる方が優先されると思うので。ですが、療育者の使うその支援方法で「親子」になれる方も大勢おられると思いますよ。
 
ま、私なんて、まだまだ(笑
親の背中が視界に入ってるのすら、判断出来ない息子なので、今は。
 
この繋いだ手の温もりを大人になっても覚えていて欲しいなあ、と、それだけでいい、と願ってる程度で(笑
 
でもね、やってくれる人が居なきゃ、私がやらなあかん時が、勿論これから先、あると思っています。
それが親の立場からであろうと、療育者の立場からで、あろうと。
それが「この子を産んだ私」の心情です。
「私が療育だ」と言い切れるまでじゃないですけども、
試行錯誤しつつ、頑張ります。
 
こちらこそ、長いお返事でごめんなさい。
ちゃんと伝わったかどうか不安なのですが・・・。
また色々とお考えを教えて下さいね~。

 




ママ | URL | 2009年01月28日(Wed)01:12 [EDIT]


お答え有り難うございます

お答えを頂いて
やっぱり違う事を言っているんだな~
ということがよくわかりました

ママさんは
親は「世話する人」
と考えておられますよね

私は
親は「生んだ人」
なので
「世話するかどうかはその親自身の考えによる」
と思っています

看護師をしていると
親であっても世話をしない人が多く居ることを
痛感する場面が多いです

話を戻しますね

ママさんは
世話をしておられるので
私は
「ママさんは療育者」だと思います

でも
ママさんは
「療育者はプロであるべき」
と考えておられるのですね

そして
「プロだったらもっとうまく療育できるのでは?」
と考えられるのですね

果たしてそうでしょうか?

私は
子にとっては
「療育者は必ずしもプロではなくて良い
また、プロである必要も無い」
と考えるのです

プロとしてのトレーニングを受けたからと言って
必ずしも
その子にとっての最上の道を示すことが出きるとは限らない
と考えるからです

ママさんが言っておられる療育の内容は
社会的な適応能力を高める事を示しておられるようですので
そのことに限って話を進めますと

前のコメントにも書いたように
子の社会性は
その子の発達段階と個別性に応じて
示され説明され促されることにより
高まっていきます

なので
療育者には
その子の発達段階と個別性を見抜く能力
ならびに
社会における課題を認識しておく能力と
適切な表現で説明する能力と
実際に子に課題を乗り越えさせる事ができるという技術的能力
が必要となります

文で書くとこうなりますが
一人の人間として見ると如何でしょう?
人は
こんな事を繰り返してきて
大人になったのではないでしょうか?

そんな大人が子を産み親になる

自分自身が素晴らしい人間では無いけれど
それなりに幸せも感じながら生きている
そうではないでしょうか?

だから私は
人として当たり前に生きていくことが
療育者としての条件と考えます
だからプロでなくても良いと思います

(少し前に読んだ本に
「最初に愛があったから」ドナシルツ著
があります.
一読おすすめします)

では
プロとは?
一定の集団(組織)の理論に基づいて
定められたトレーニングを受け
定められた技術を得ている
という事だと思います

ところで、プロが関わる事が
その子にとってメリットがあるとは
必ずしも保証されません

例えると
病院に風邪でかかるとして
ある薬を医師が処方します
でも
本当にその薬が効くには
その患者の症状を医師が正しく読み取り
見合った薬を見つけ
適切に飲むように飲む方法を実行させなければなりません
もし患者が子どもだったとしたら?
医師の判断は多くは
その子どもの母親からの情報を参考にするでしょう

つまり親が見た子どもの症状を伝え
親がその子に普段よく効く薬を示し
飲ませるのさえ親が実施する事も多いでしょう

プロの意見より
日常、その子の世話をしている人の意見を優先するのです

そしてほとんどの場合
それで間違いは起こらないのです
しかも
薬が効かなくても(飲まなくても)
案外数日で治ったりもします

ではなぜプロの意見が必要なのか

ハッキリ言って
親の安心感のためです

他の親が行ったり、
一般的に多く用いられ有効だとされる情報を
提示出きるのは
そういうトレーニングを受けているプロだからです

だから、親への説明が不充分だったり、技術を伝えられず
親が安心しない、迷いを与える場合は
プロとしての能力に欠けると思って良いでしょう

しかしあくまでも情報を提示する人であり
子にとっての部分では
親に大きなハンディを負っている人なのですから
親は決してその情報を鵜呑みにしたり
質問もせずに信用してはいけないのです

私の実感では70%位の信頼度だと思っています

でも親として私自身
子の評価を正しく行えているとは言いがたいので
子にとっては60%程度しか
適切な情報や技術の提供はなされていないような気がします
つまり後の40%は子の力だということです
大きくなるにつれ
その度合いが大きくなるのは言うまでも無いでしょう

でも私はやはり、
そういうふうに提示を引き出すことすら
その子どもの力だと思うのです

どんなに小さくても未熟でも
親や療育者者に対し懸命にPRできる子どもの力です
「ちがう」「おかしい」「なんとなく変」ということすら
PRできない子どもは多くいます
それは決して親や療育者だけのせいではないのです
その子の能力という言葉で不十分なら
その子の運、と置き換えてもよいです

社会性というのはあくまでも
その子の能力に応じたものを提供し促す場合にしか
高める事はできません
ということは
生まれながらにして持ちえたものを
例え親といえども変える事は難しいのです

決して無理だとかやめておけと言っているのではありません

親は少しでも社会に適応して欲しい思いで一杯です
しかも早く…
そして自分が確認し安心したいと思いがちです

でも子にとっては、
親が思う適応能力を発揮する事が目標なのではなく
子なりにその社会につきあっていければ充分なのです

前にも言いましたが
私は子どもが小さいときにこんな事を考える余裕も無く
ただただのめりこみ、
今ある現象を必死で捉えようとしていました

今やっと余裕を持ち振り返ると
折々に子ども自身が示してくれていたものを
見抜く事ができていなかった自分に呆れるくらいです
なぜなら
自分の思いに囚われてしまっているからです
子ども自身が伸びていこう、
変わろうととするポイントを待つ
ただひたすらに信じて待つ
それで良かったのに~と思う事が沢山あります

療育者としてプロの意見や技術は参考にします
でもあくまでも
それは親が子に関わる時の関り易さのためです
言いかえれば
「親が育てにくいと感じる度合いを減らす」ためであって
子にとってその意見や技術が正しいかどうかは
いずれ大きくなってから子どもが評価するのです

ママさんはとても良い関わりをしておられます
こんな言いかたをして見もしていないのに・・・と
お叱りを受けそうですが
決して迷ったり悩んだりするような間違いをしているようには
感じられないのです

明らかに間違いでなければ
(間違っていても子に能力があれば乗り越えます)
子に「愛してもらえているような気がする」と
伝わっていれば療育としては大丈夫なのです

sky_mamaさんへの返事で書かれた後半部分なんて
圧巻です
そんな風に子に接する事が出きるママさんはすごいな~って
リュウくん、ママさんの子で幸せだね~って思いますよ

我が子へ
こんな母ですんません
(あ、ここに書いても見る訳じゃ無いか)
でも
これからも
自分の目で見たものを確かめながら
手応えを感じながら確実に行う
そんなふうに一瞬一瞬を丁寧に生きることにして…
よろしくお願いします

長くなってゴメンなさい

こんな私の独語にお付き合い戴いて
すいませんでした

PS:言い忘れました
(こんなに長く書いたのに)
親の責任についてもママさんは書かれておられますが
親としての責任は
「子を生んだ事に対して生じる」のであって
子の療育上の責任は
「療育する皆で共有する」べきと考えます

子(あるいは親)の個別性により
親だけの療育では不十分な場合の責任は
当然親に有るのではなく社会にあるのです
もともと責任なんて言うのは
社会に生きるからこそ生まれるものなんですから…

さてその割合は?
親が決めたら良いのです
丸投げで「お願い」している親も多くいます
それはそれで、
大きくなった時に子が良いと評価してくれれば
(そうした環境で育つとやむを得ず納得させられているのが
大半なのかもしれないですが)

ということで
ママさんは立派に責任も果たしておられます
偉いですね~




なんだろう | URL | 2009年01月30日(Fri)09:10 [EDIT]


なんだろうさん

またまた、ありがとうございます!
 
医者と患者との例え話、画面こちら側で「頷きつつ」読ませて頂きました。
 
そう、親の意見を「聞いて」医者は、その知識を持って「処方」してくれる・・・。
そうなんですよね~。
 
私はその医者に話す時の知識ではなく、こう~、なんというか、知識を実践で活かした「智慧」の部分を、と思っていて。
それを医者に言いたい!と。
んで、療育者である医師が「見合った薬」を施していくのを、また親の目で見て、その薬の名前を知るのでなく「効果」を判断しつつ、また智慧(教養 として、それを子供の一部分と捉えて、また実践・・・、って形で。
 
私は療育者の目で子供を見てるように感じる時、自身は「突き抜ける」ではなく、子供を親として「突き放してる」様な感じがして・・・。
それがすごく辛くて。
 
今、カワイイ盛りの4歳(幾分幼いですけども で、それでも「今」20年先を考えながら、一度ついたこだわりや、トコロ構わず発する奇声etc・・・等を見てると、いつも自分が間違ってるんちゃうか?ってね。
 
だから第三者、その知識、もちろん経験を含んだ実績ある療育者の客観的な目で、私達母子を見て欲しい、と切に思ってしまって。
 
「どちらかでないと!」なんて決定付ける必要もないモノなのですが、時々、心が折れてしまいよって。
んで、こう言わなきゃ(肯定的に 分かる訳ない、と知ってるクセに、否定的な言葉で「ちゃうちゃう、何やってんねん!」ってね、息子はそんな言葉掛けしても、全くの無視か怯えるだけで、また同じ繰り返しやねんけど、言うてまうねんな~~。
 
親としてプロなんて、当然言える私ではなく、そんでも療育者にもなりきれず、となって、それって私の育成過程なんですけども、歯痒くなるんですよね、こう~、感覚的に割り切れない、と言うか(笑
 
医者の知識があれば、その副作用までも考慮しつつ些事加減を・・・と贅沢を考えてしまうんですよね~。
ですが勿論、私は医者ではなく、今すぐに自身が学べる状況でもなく、ただ目の前の息子と「向き合いながら試行錯誤」な毎日で。
 
自身が、「どちらか」を判断したいのだけでなく、その先を考えてしまっています。
 

 
この続きは本当に長くなるので、次回の記事で上げますね~、時間があったら私の焦る理由?とでも言いましょうか、それらに、ぜひお付き合い下さい~~。
 
本当に、今回も長いコメントをありがとうございます。「世話してるから親だ!」と「良い関わりをしてる1」の二言で、肩の力がす~っと楽になるような気がしています。ありがとうございました。

ママ | URL | 2009年02月03日(Tue)22:00 [EDIT]


 

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