愛ダケじゃ、育たない。

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発達障害児における祖母的愛情の不可欠

24時間を過ごしていると、母親としてではなく。
完全な療育者の目で息子を観察している時がある。
 
愛情がない、と言うわけではなく。
愛着が足りない、という程度にだが。
慈愛には、程遠い。

息子が「ばあば」の言葉を発するとき。
どちらかと言えば、とても状態が安定している時、それと。
「前向きな考え方」をしている時だ。
「ばあば」とは私の母で、息子にとっては、たった一人の祖母。
 
「息子ちゃん、大阪が良かったねんなー」 (淡々と単調な話し方で
「うん、ママも大阪好きやったなー」 (感情を言葉に乗せつつ、息子の顔を覗き見る
「・・・でも、いいやん!ばあばのお家が近くなったしー」 (私の以前言った言葉
 
こういったポジティブな方向性を決定付ける時に、息子は、「ばあば」と口にする。
ばあば、と言う息子の発声は、その単語を舌の上で転がすような、
目の前に本人が居なくても、十分、名前を呼ぶだけで甘えているような口調で。
 
母親とは、子供を「立派にしよう」「真っ当にしなきゃ」といった親の思いで
時として厳しい躾や、キツイ説教になるが、「ばあば」とは。
産んだのが自分以外の、それも外孫とくれば、可愛さが余る事はあっても。
憎さが先に立つことなど、大概の場合はないんやろなあ。
 
舐められるように可愛がられた事もないのに、息子は実家に行くと。
寄り合った親戚の中でも、甘える相手を間違わない。
大声で、門をくぐるなり、「ばあば~、ばあば~、ひぃば~ばぁ~」と。
御年、94歳になる私の曾祖母も探して、家中を歩く。
 
その声に家の奥から、小さな声で「はいはい、ばあばはココですよぅ~」と聞こえれば。
脱兎の如く駆けて行き、その足元やら周りで、お得意のピョンピョンと、本物の兎だ。
何をねだるワケでもない、何を買い与えるワケでもない、普段は離れて暮らし、
週に1回程度電話で、一日にあったアレコレを報告するだけの会話をする。
それだけの繋がりであっても、息子は敏感に感じ取る。
 
祖母は、自分を無条件に慈しんでくれる人だ、と。
自閉症の子供は空気を察するのが苦手、とある。
確かに、空気が読めない場面は日常の中で、多々ある息子だが。
いわゆる理性より本能が勝っている部分が、この「人を視る能力」かもしれない。
誰かが何かを息子のために懸命にしてくれていても、何処吹く風、の時がある。
静かにせねばならない場面で、場所で平気な顔をして、沈黙をかなきり声と共に破る。
それでも、どうしてだろう、息子は「ばあばと、ひぃばあば」がとても好きだ。
 
ママにべったりで、息子をばあばに預けた事すらない。
厳密に言うと、預けたけど失敗に終わってん。
友人の出産祝いに病院へ出向く際、1歳になっていた息子を、2時間程度のつもりで
ばあばとひいばあばに預けたのだが、1時間しないウチに携帯が鳴った。
「イチゴでも、テレビでも騙されへん~~、ずーっと狂った様に泣き通しや~」 と。
 
二度目は、引っ越ししてから1ヵ月後、息子3歳8ヶ月の幼稚園の説明会。
前日は時計を見せ、帰宅時間の指示も入れ、本人が十分納得するまで話をした。
泊まり込みで息子と遊び続け、当日も朝から、ばあばと一緒でご機嫌な様子を確かめた。
だから、玄関から、いってらっしゃい、と笑顔で手を振ってくれると信じていた、のに。
 
息子は、玄関から出ようとしていた私を追いかけ、泣き叫んだ。
その声は、自宅から50メートル下った坂を曲がりきった後も聞こえ、
要するに一度目も二度目もパニックを起こしていた。
ばあばは、
「普段あんなに聞きワケの良い子が、信じられない・・・」
「もうすぐ四つが来る子で、幼稚園にも行ってたのに驚いた・・・」
 
山が割れるぐらいに、泣き叫んだよ・・・」 と。
息子の障害の事は、ある程度伝えていたのだが、目の当たりにしたのは初めて。
赤ちゃんの時は、「人見知り」で説明もつくが、幼児の域になると誤魔化しは効かない。
 
それでも、ばあばは。
今も、そのまんまの息子を大事に大事に、見守ってくれている。
息子からすれば、半狂乱のパニック状態を見せた数少ない相手だ。
当然、覚えているだろう、だからこそ、「ばあば」を信頼しているのだと思う。
週に一度の電話は、会話ではなく、報告、のみだ。
登録してある番号を自分で押し、真剣な面持ちで相手が出るのを、待つ。
「今日は公園に行った、白鳥にパンあげたねん、食べてた」 と送話口に向かって話す。
向こう側からは、
「そうか、今日は寒かったやろ~、パン何枚持っていったん?それから?」 と、
ゆっくりした口調で、相槌をうってくれている。
 
アレはあかん、コレは少し待って、なんて療育を行いつつ過ごす時間と、
「どうしたら、可愛い孫が楽しんで遊べるか」の一点に心を砕き、
その時間を尊び、ただひたすらに幼い命を敬い、注ぎ続ける慈愛の時間と。
どちらが息子にとって、心地が良いか考えるまでもない。
 
母は言う。
「アンタが母親やからね、私の可愛がり方が邪魔になったらあかんなあ、
 あの子のアレコレ言うても、良く分かってないし、教育方針とかあるやろ、
 いつも思ってるんやけど、何かあったら、言うてや? 
 アンタが、あの子の母親やねんから、ね・・・」 と。
 
私が二人居たとしても、息子に与える影響は大して変わり映えはしないだろう。
息子の中には、「ばあば」だからこその価値がある。
 
それは多分、パニックを起こしたら、無視するか放置しておく、といった手法ではなく。
泣き叫ぶ孫を羽交い絞めにして、抱き止めた腕の力かもしれない。
延々と泣き続ける孫の背中を、ただただ撫でていた、皺くちゃの手かもしれない。
晩ゴハンの支度中に、ママに内緒でこっそりくれた、ちくわ一切れ、かもしれない。
「息子ちゃんだけ、特別やからね」と皆に聞こえる内緒話の内容がどうであれ、
自尊心も優越感も、くすぐるだろう、無条件に自己肯定に繋がるだろう。
 

縁側でシャボン玉で遊ぶ、祖母と曾祖母と息子。
いつまでも、息子の特別な存在で居て欲しいと願うと共に。
彼女達にもまた、育てられる息子を思う。
私の教育方針は、あなた方から受け継いだのだ、と自信を持って。
 
この正月に息子がもらって一番喜んだ、お年玉は。
一万円札でも、高価なオモチャでも、電車の本でもない。
小銭がぎっしり詰まった、総額1000円のパンパンに膨れたポチ袋だった。


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